ZINE『海の川柳』を読む

川柳

全日本川柳神戸大会を記念して、2025年6月22日に発行された、「『海の川柳』〜海にまつわる56句の川柳アンソロジー」という素敵なZINEがある。入手してから幾度も読み返したのだが、遅ればせながら感想を書いてみたい。56句、どれも素晴らしいので悩んだが、全てを紹介するわけにもいかないので、中でも印象に残った句だけのご紹介となることをお許し願いたい。

 瞬けば永遠に海だったはず   高良 俊礼

瞬きというのは不思議だ。瞬いたその一瞬をまぶたに焼き付ける働きがある。掲句では、主体は瞬くことができず、海は主体のなかで永遠のものとはならなかったのだが、その後悔は痛切でありながらどこか甘やかに響く。恋句としても読めそうな一句。

 海色の付箋を海に貼っている   nes

海色の付箋、というのがまず魅力的だ。晴れの日の海と荒れた海とはまったく色が違う。北海道と沖縄の海の色も違うし、季節によっても色は変わる。この付箋も、そのように色が変化するのだろうか。そんな付箋なら私もぜひ欲しい。
そしてこの句の中で主体は、この「海色の付箋」を海そのものに貼っている。その自由な発想にも驚くが、海色の付箋を海に貼るという目立たなさが何だか良い。ひそやかに、お気に入りの海に印をつけるためだろうか? たぶん、貼ってはがせる付箋で、海を傷めない材質のものなのだろう。やはり欲しい、この付箋。

 貝殻を耳に当てればマンタ悠々   宮井 いずみ

手のひらに収まりそうな小さな貝殻だが、耳に当てればマンタが悠々と泳いでいるという。十七音(この句は十九音だが)の中にこんなにも壮大な光景を仕込める川柳という文芸と、この貝殻とが二重写しになって見えるのは私だけだろうか。宮井いずみさんは、きっと魔法使いだ。

 絵日記の海に塗りたくもない青   西沢 葉火

海といえば青と思いがちだが、海を知っている人ほど、その色の複雑さが骨身に染みているのだろうと思う。そんな人にとって、絵日記の海を青に塗ることは手抜き、あるいは海への冒涜とさえ感じられるのかもしれない。海の近くに住んだことの少ない身としては、改めて海を見に行きたくなる一句。でも本当は、海も言葉もそんなに単純に青という一色だったり、ひとつの意味だったりに括れるものではないことを皆知っているのだ。

 卓上の白布をさっと引けば海   しまねこくん

こちらは魔法使いではなく魔術師・奇術師を連想する一句だが、本当に海が現れるのだとしたら、それこそ魔法である。そしてここは本物の海が現れるのに違いない、と読み手に感じさせる。ドラえもんの秘密道具にこんなのはないだろうか(全く知らないのだが)⋯⋯ないとしたら、ぜひ作ってほしい。誰もがこんな魔法を使えたら、きっと世界も平和になりそうだから。

 凪いだ海あの日のことをひた隠す   穐山 常男

心象風景としての海と取ったが、現実の海も同じかもしれない。先の大戦でどれだけの人が海に散ったか、凪いだ海面は語らない。だがこの句からはもっと個人的な大きな出来事の気配がするように思う。多くの人に同じように「あの日」があり、それをひた隠す「海」があるのだろう。

 乙姫へミサイルというサプライズ   浪越 靖政

内容は重いのだが読み方が軽妙なので、余計にジワジワと効いてくる、ボディブローのような句と感じた。乙姫さまへも、そして私たちの頭上へもいつミサイルが降ってくるか分からない今日このごろ、そして実際にミサイルが飛び交っている国や地域もある。多くの人が平和を願っているのに、一握りの権力者のために起こる戦争。そんなのはもうごめんだ、と私も声高く叫びたい。

 海になるまでビー玉掬う   小沢 史

手のひらにビー玉を掬って、また掬って、いつしかそれが海になるという作者。七七の短句、たった十四音のなかに、作者の儚くも強いファンタジーが宿っていて、手のなかの、そしていつの間にかまわり一面の海を確かに感じられる一句。こんな句が読めるのなら、人間でいるのも悪くない。

 コバルトの海は誘拐犯である   森井 克子

「である」と言い切っているが、それがふさわしい。コバルト色の海には、人を誘って帰さない力があるのだから。ほら、あなたにも覚えがあるでしょう?

 Amazonの段ボールから波の音   真島 久美子

思いがけない場所からの波の音だが、昨今のAmazonは本当に密林状態で何でもありだから、ひょっとしたら私が知らないだけで、海だって配達してくれるのかもしれない。注文して届いたら、開けるか開けないかかなり悩みそうだ。だって、開けたら海が溢れ出てきて、何もかもを呑み尽くしてしまいそうだから。まるで現代版パンドラの箱みたいだ。

 シーグラスこっぱみじんの夏でした   真島 凉

シーグラスというのは、長い年月を波や砂に揉まれて丸くなったガラス片のこと。子どもの頃、シーグラスを集めて遊んだことがあったが、そう簡単に割れるようなものだった記憶はない。むしろ割れにくかった気がする。
それがこっぱみじんというのだから、いかほどのことがあった夏だったのか。そこは語られないが、衝撃の大きさとともに、鮮やかな夏の日差しまで感じられるような一句。

 果ての果て狂った魚に逢いにゆく   落合 魯忠

「果ての果て」という言葉から連想したのは、北極や南極などの極地。厳しい環境に、魚も狂うのかもしれない。主体はその狂った魚に逢いに果ての果てまでゆくという。そこには、自分も狂いたい、という願望があるように感じる。そうしてこの十七音を読み返すうちに、いつしか魚と主体とは入れ替わり、読み手と書き手も入れ替わってゆく⋯⋯そんな感覚を覚える不思議な句。

 軍艦を赦した海の無表情   真島 久美子

生命が海から生まれたことを思えば、生命を奪う兵器である軍艦がどれほど海を傷つけ、怒らせたかは想像に難くない。だが海は軍艦を赦したという。ただし無表情で。この無表情は怖いが、人類みなが忘れてはならないものだろう。

 深い海のぞいてからの失語症   佐野 由利子

あまりにも圧倒的なものに直面した時、人は言葉を失うが、大抵は時間の経過とともに元に戻る。だが主体の場合は、「失語症」になり、そのまま言葉が戻っていないという。どれだけ深い海だったのか、そこをのぞいた主体が何を見たのか、怖ろしくもあるが、同時に「この失語症を私も知っている」という感覚も起こる。たぶん、多くの人がそれぞれの深い海をのぞくのだろう。

 海にいた頃のウロコを持て余す   汐田 大輝

海にいたのは遥か昔のはずなのに、主体にはまだウロコが残っているらしい。そしてそれを持て余しているらしい。どうしてだろう? 陸上では不要で邪魔なものだからだろうか? 確かに、人間の柔肌と触れ合うのにもウロコがあったら邪魔だろうし、もしかしたら突発的に海に帰りたくなってしまったりもするのかもしれない。もうひとつの読みとしては、「海=羊水」というもの。こちらのウロコが残っているのは、さらに厄介そうだ。でも、少し嬉しくもあるのではないだろうか。もし主体に、「そのウロコ取ってあげるよ」と言っても謝絶される気がする。

 天辺の扉を開けて海に出る   城水めぐみ

「天辺の扉」というのがまず意表をつく。天窓とも違うし⋯⋯どうしてそんなところに扉があるのだろう? そしてその扉は、海中にあるのか、海上に出ているのか⋯⋯たぶん後者のように思えるが⋯⋯。
そんな疑問を、だがこの句の開放感は軽々と吹き飛ばす。主体とともに扉を開ければ、ほら、そこは海。扉が天辺にあるというのも良い。こんな家に住んでみたいと思わない人はいるだろうか? 私は住んでみたいし、何ならほら、自分用にそんな家の設計図をこっそり描いてみてもいるのだ。

 三月十一日 海を眺める   月波 与生

三月十一日、言わずと知れた東日本大震災の日である。下の句の「海を眺める」⋯⋯この七音のなかに万感の思いが込められている。『海の川柳』の締めくくりにふさわしい一句。

なお、このZINEは以下から購入出来る。

オンラインショップ「詩歌本の店『満天の星』」

お勧めの一冊だ(文中敬称略)

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