川柳の歴史を紡ぎ続けること~北海道立文学館『田中五呂八をめぐる人々』を受講して

記事にするのが大変遅くなりましたが、2023年10月28日、北海道立文学館で開催された講義『川柳〜田中五呂八をめぐる人々』を受講してきました。講師は札幌川柳社の名誉会長で、全日本川柳協会常務理事、北海道川柳連盟顧問、札幌文化団体協議会常任理事も務めておられる岡崎守氏。受講者のほとんどは札幌川柳社の関係者の方々だったようで(私も少し前から会員になっているのですが、今回は初対面の方ばかりでした)、やや内輪話の雰囲気もありましたが、講義そのものは非常に興味深く、充実した一時間半でした。

田中五呂八は、1895年生まれ、新興川柳論を唱え、北海道の柳壇を強力に牽引した人物で、川柳誌『氷原』を創刊、『新興川柳詩集』を編み、自身は【人間を掴めば風が手に残り】などの作品、そして『新興川柳論』などの評論を残しています。鶴彬や森田一二とも深い関わりがありました。今回の講義は、故斎藤大雄氏(札幌川柳社主幹。北海道川柳連盟会長。日本川柳ペンクラブ副会長。(社)全日本川柳協会常務理事。(社)日本文藝家協会員)が遺した著書『田中五呂八の川柳と詩論』や史料、坂本幸四郎氏の著作『雪と炎の歌ー田中五呂八と鶴彬』をまとめたもの、そして、田中五呂八と関係があった方々の奥様と岡崎守氏が電話でお話しした経験などをもとにしたものでしたが、一番印象に残ったのは、川柳の歴史を途切れさせず紡ぎ続けていくことの大切さと、その困難さでした。

岡崎守氏のお話は、この日の講義で田中五呂八について話すように頼まれたが、時代も違い、直接面識があった訳でもなく、また史料もあまり残っていないので、何をどう話そうか悩んでいる・・・というところから始まり、(川柳と川柳人の)歴史を残すことに皆があまり真剣になってくれない、という嘆きもありました。実際、川柳に関する本を着払いで構わないから送ってほしいと呼びかけたことがあるものの、応じてくれた人はほぼいなかったそうです。そういう状況で、貴重な史料が散逸し失われ、特に、先人個々人についてはまだある程度史料が残っているにせよ、それらの人々がどのように繋がり、影響を与え合っていたのか、ということがほぼ分からない、とのことでした。

また、現在進行系の話として、例えば札幌川柳社の柳誌『川柳さっぽろ』は全巻残っているが、道内の柳社では柳誌がすでに散逸してしまっているところがある、ということ、それらの柳誌や史料を残してくれるように、また、一人ひとりの川柳人に、たとえA4の1ページでも良いから、自分史の一環として、「自分の川柳史(柳歴や、他の柳人との関係など)」を残してくれるように、呼びかけている、ということも伺いました。

講義が終わっての感想は、歴史とは作り続けられるものであり、自分もささやかながらその一部分である、というものでした。川柳に関わる人間として、句を書くだけでなく、先人に学び、後世に伝えていくのもまた、大切な役割の一つなのだと思うと身が引き締まる思いでした。

ただ、実際に考えると色々な困難があることにも気付かされます。私は、平均寿命から言えばまだこの世を去るには早い年齢ですが、人生何があるか分かりません。今手元にある川柳関連の資料をもしもの時にどうするか、誰に託すか、と考えた時、思い当たる具体的な人はいません。逆に今は、先輩方から少しずつ貴重な句集や柳誌を譲り受けている段階です。また、個人的な川柳史についても、特にまとめてはいません。

後者は、何かあった時のために、今から書き始めて折々に更新していくとしても、やはり資料と同様、「それを誰に託すか」という問題が起こってきます。句集や柳誌などの資料と個人史どちらにしても、公的な団体への寄贈が良いのか、誰か、出来れば自分より歳下の世代で、託せる相手を探すか・・・探すとしてもどうやって、若くて、意欲と余裕(例えば、資料を保管する場所も必要でしょう。経済的にもある程度余裕がないと厳しそうです)のある人を見つければ良いのか・・・難しい問題だと思います。もちろん、残される家族へ、資料をどうしてほしいかも頼んでおかなければなりません。私は受講後、他のきっかけもありエンディングノートを作って夫にある程度のお願いはしてありますが、将来一人になったとしたら、家族に頼む以外の方法も考えなくてはいけません。

ただ、そうした困難さはあるにせよ、それを乗り越える必要性に気づいたのは、今回の受講の大きな収穫でした。今は「受け継ぐ側」として、そしていずれは「残す側」として、私は私なりに役目を全う出来たら良いな、と思います。そして願わくば、この記事を読んでくださった方々にも、ぜひそれぞれの歴史を紡ぎ残していっていただければ幸いです。

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